"出世街道"演歌旅1


バブル経済の頃は、私も歌謡界きっての株トレーダーと言われました。
最盛期には47億円も儲けましたが、バブルがはじけると状況は一変し、22億もの負債が残りました。
一時は眠れぬ夜を過ごし、自殺を考えたこともあります。
借金も数千万円まで減り、自宅も手放さずに済んで、元気に歌手活動を続けています。

私は士別出身と公表していますが、生まれは母千枝(もえ)の実家があった稚内です。
海軍中尉だった父三浦利治が神奈川県の横須賀で勤務していたころ、南浜通(現稚内市中央)の祖父母の家で生まれました。

戸籍上は祖父母の次女、実母の妹になっています。一人娘だった母の結婚条件が、畠山家を継がせるため最初に生まれた子供を祖父母の養子にすることでした。恋愛結婚だった父が、その条件をのんだのですね。

生まれたあとは、両親や弟と横須賀、広島県江田島、千葉県木更津と父の転勤先で一緒に生活しました。木更津では妹が生まれました。


3歳半の時、祖父畠山宇太郎が迎えに来たのです。東京・目黒の雅叙園で送別会が開かれ、おじいちゃんと二人で汽車と青函連絡船で稚内に向かいました。お別れ会や道中のことは覚えていませんが、稚内駅のホームの坂と着ていたねずみ色のオーバー、夕方の曇り空で薄暗かったのは記憶にあります。

大工の棟梁だった祖父と祖母ヤエには本当にかわいがってもらいました。
青森県五所川原出身の祖父は、16歳で北海道に渡って来たそうで、仕事に成功し稚内に33軒もの貸家を持っていました。
南浜通の自宅は稚内駅に近い中心街にありました。庭に白砂が敷いてあって、大きく立派な家でした。
常に一人か二人のお手伝いさんがいました。
近所には中沢病院やうどん屋さんがありました。
海が近くて、近所の年上の男の子とよく港に遊びに行きました。舟から舟へ飛び移って遊んだのですから、今考えるとおっかないことです。
冬は馬そりが雪道に落としていく積み荷のホッケを拾ったものです。おばあちゃんがすり身にして食べさせてくれました。
戦時中で食糧難だったはずですが、空腹の記憶はまったくというほどありません。
祖父が知人の和菓子屋へ連れて行ってくれて、あんこをおなかいっぱいに食べましたもの。
食料に事欠いたのは終戦後です。


昭和21年(1946年)3月、6歳の時に士別市下士別に引っ越しました。家を建て、祖父は大工の仕事をし、祖母は畑で自分達が食べる野菜を作りました。何で縁もない士別だったのかは分かりません。
間もなく、母と弟、妹の3人が祖父母を頼って士別に来ました。父が終戦で職を失い、当面食べていくのに困ったのでしょう。3人は1年間いて、札幌に移り住んだ父の元に昭和22年(1947年)に行きました。
母たちと別れたときは寂しくて悲しくて、自宅横の畑で泣きました。
まだ、わずか七歳ですもの。「私も一緒に」と言いたくとも、かわいがってくれる祖父母がかわいそうで言えなかったのです。


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