"出世街道"演歌旅10


ステージでのおしゃべりを身に付けたのは、昭和56年のブラジル・ベレンの公演がきっかけです。
日系人の方に喜んでもらおうと、振り袖は10点ほど用意しましたが、公演時間は1時間半というので、持参した譜面は20曲分だけ。
それが、現地では「2時間以上やってほしい」というのです。
当時は話は司会者に任せて歌手はしゃべらない時代です。でも、そんなことを言っていられません。
歌の合間のおしゃべりで時間を延ばす以外に方法はありません。
巨大なヘビがとぐろを巻いていて驚いた話や、食材の豊富さなど現地で見聞きしたことを夢中で話しました。
これがお客さんに喜ばれましてね。私だってしゃべれるんだ、と思いました。
以後、自らマイクを握るようなステージがこなせるようになったのです。


主人(千秋与四夫)と出会ったのは、39年のさっぽろ雪まつりの歌番組の仕事です。
当時主人は、フジテレビの社員で、「スター千夜一夜」「歌の饗宴」など人気番組のディレクターでした。
独身かどうかも分からず、札幌では特別に意識はしませんでした。
その後、私が「スター千夜一夜」に出演が決まり、東京・六本木の中華料理店で打ち合わせをしたときです。
隣にいた主人がはしを落とし、拾ってあげたとき、ピーンと直感がしたのです。
私、この人を一生面倒みるのかな、と。
人目がある上、当時、私には芸能雑誌やスポーツ紙など6,7社の番記者がついていました。
地方の仕事も多く、デートもままなりません。
もっぱら電話でした。
夜、私からダイヤルを回すのがほとんどでした。


プロポーズについて

主人から「一緒になるか」でしたね。
素直に「はい」と答えました。
コロムビアや所属事務所の反対はありませんでしたが、私の母だけが反対しました。
寝たきりの父を抱え、苦労してきた母にすれば、娘の人気がでてきてこれから経済的に潤う、と思っていたところです。
あとで考えれば当然だったでしょうね。
結局、折れてくれるのですが。

仲人を主人の上司のフジテレビの編成局長にお願いしたら、「相手がスターでは、私では無理だ。社長に頼め」と断られたそうです。
そこで、フジの鹿内信隆社長(空知管内由仁町出身)にお願いに行きました。
「社員の仲人はしないことにしているが、君たちは特別だ。仲人はこれが5組目だよ」と、快く引き受けてくださいました。



式と披露宴は、40年4月5日、ホテルオークラで800人を招待して行いました。
稚内のおじいちゃん、おばあちゃんや両親、三波春夫さんや村田英雄さん、北島三郎さんたち歌手仲間も出席してくれました。
主人の手掛けた番組が大ヒットしていましたので、テレビの関係者もたくさんいらっしゃいました。
それは盛大なものでした。

ご祝儀は、数千万円でしたね。大きな風呂敷3つに包んで持ち帰りましたもの。
新婚旅行はハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークへ1週間の旅でした。

新居は主人の杉並のアパートでしたが、あまりに狭いので、間もなく新宿の賃貸マンションに引っ越しました。


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