"出世街道"演歌旅2

小学校は家の近くの士別市下士別小です。おてんばで、おてんばで。
おじいちゃんにスキーを作ってもらってね。
もちろん、カンダハーのスキーに竹のストックの時代ですよ。
日曜日は、市街地に近い学田の山に行くのが楽しみでした。冬道を4キロも歩いてです。
リフトもロープトウもなく、自分の足で一歩一歩登っては滑るの繰り返し。
直滑降で滑って、ボーゲンで止まるの。
今でも、スキーぐらい面白いスポーツはないと思います。だって、51歳でスキー検定の1級を取ったぐらいですもの。

小学2年の時に国鉄宗谷線の線路脇でスキーで遊んでいて、列車にはねられそうになったのです。今思ってもぞっとします。
中学2年では足首を捻挫したこともあります。
冬といえば、士別のある名寄盆地の寒さは半端ではありません。
小学校5年の時には氷点下36度を体験しました。
学校は休校。馬そりの馬の頭が真っ白になって、全身からもうもうと湯気というか、蒸気というか上がっていました。
その時は、家の柱時計の油が凍って針が止まりましたから。

中学は下士別です。自宅から2,3キロ、徒歩で30分くらいかな。
冬はスキーで通いました。
バレーボール部に入り、1年生から正選手で、3年ではセンターでキャプテンでした。もちろん、当時は9人制ですよ。
得意科目は数学と体育。
下士別小の教頭先生の娘さんで上級生の井出和子さんがかわいがってくれて、算数を上手に教えてくれたんです。
おかげで、算数、数学が大好きで得意科目になりました。
スキーはもちろん、足は速い、競歩や砲丸投げが得意と体育は何でもござれでした。

歌について。

家に大きな蓄音機があって、4歳の時に最初に買ってもらったレコードが川田正子さんの「みかんの花咲く丘」でしたね。
小さなころは童謡でしたが、10歳の時に美空ひばりさんの「悲しき口笛」をラジオで聴いて、本当にしびれてしまいました。
以来、ひばりさんを中心に歌謡曲ばかり歌いました。
当時は小、中、高校とも学校で演歌を歌うのはご法度です。
ただ、修学旅行や謝恩会では許されました。

中学の修学旅行は洞爺湖、函館方面でした。函館の観光バスの中で私がひばりさんを歌うと、運転手さんが急にバスを止めて、マイクを用意してくれたんです。「何曲でもいいからひばりを歌ってほしい」と。
高校でも謝恩会など何かあると、先生から、「畠山、ひばり歌え」と声が掛かりました。

高校は士高です。士別高校を地元ではそう呼びます。
夏は自転車、冬は下士別の無人の停車場から宗谷線で汽車通です。

ちょっと自慢させていただければ、小、中学校ではよく勉強しました。
高校に入ったら数学以外は勉強はあまりしなくて、部活のバレーボールが中心の生活。
勉強は二の次でしたね。

忘れもしません。高校2年の昭和31年7月5日、午後の1時間目の授業中です。先生が教室に飛び込んできて「畠山、家が火事だ。すぐに帰れ」って・・・。


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