"出世街道"演歌旅4


昭和33年7月に19歳で上京した私は、15年ぶりに家族とひとつ屋根の下で暮らしました。
小山町(港区三田)の借家でしたが、高校生や中学生の弟、妹が一緒です。うれしかったですね。
母と相談して秋入学もある新宿の文化服装学院に進むことにしました。デザイナーを目指したのです。
母は東京の大妻女子大を出て、洋裁はプロでしたので、私も教わらずとも針仕事は好きでした。

8月に手続きをして入学まで2ヶ月ありました。大好きな歌でも習いに行こうと思って入ったのが、古賀政男ギター歌謡学院です。
代々木上原にあった分院で、週1回のレッスンで月謝は3000円でした。

教えるのは古賀先生ではなく、代稽古です。先生の指導は月謝1万円で、とても払えませんから。
それに、レッスンも何だか面白くなくて1ヶ月でやめてしまうのです。

次に通ったのが、江古田(中野区)で作曲家の船村徹先生が開く歌謡スタジオです。
芸能週刊誌に「歌手になれそうな人しかは入れない」とあったので、これはチャンスかなと思ってテストを受けてみたの。
合格しましたよ。ここも月謝は3000円。
入って分かったのは、受けた人は全員合格だったということね。
一日の練習生が何十人もいましたもの。

無名時代の北島三郎さんにもここで出会いました。
滝のぼるという先生による代げいこでしたが、ごくまれに船村先生が顔を出しました。

私が村田英雄さんの「よさこい三度笠」を歌っていた時、たまたま船村先生が見えたんです。
先生が「おもしろいね。(お姫様女優の)高千穂ひづるがやくざものをやっているみたいだな」とおっしゃって、指導を代わりました。
若い娘が男歌を歌っているのが珍しかったんでしょう。
船村先生が「キングか東芝のテストを受けさせる」と言うのを、私がどうしてもコロムビアに行きたいと無理を言ったりしたので、結局、先生とのご縁はそれっきりになりました。私は美空ひばりさんがいるコロムビアに入りたかったのです。


文化服装学院ですか。
実は10月に入学して12月でやめてしまったのです。
父が入院して、母の洋裁だけでは生活できなくなったので、母は別の仕事を始めました。
それで、私がきょうだいの食事などの面倒を見るようになったの。
洋裁の宿題ができなくて、授業についていけなくなりました。

母は銀座1丁目で、金融業の山二商事と「サスキヤ」というクラブを経営しました。
父の面倒を見ながら子供4人を育てるためとはいえ、母親は本当にたくましいですね。
毎日3000円を貯金していました。当時の3000円ですから、結構な価値です。
おしゃれな母でね、毎日美容院へ行きました。よく、女優の木暮実千代さんに似ていると言われました。

私もクラブのレジを手伝ったことがありますが、あのころの銀座の華やかさといったら、今とは比べものにならないですよ。
士別から出てきたばかりの20歳前の娘には、これ以上魅力的な街はなかったですね。
母の店で歌ったこともあります。
昭和35年春、ニッポン放送のラジオ番組「トップライトショウ」の素人のど自慢に出たことが私の人生を大きく変えることになります。


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