"出世街道"演歌旅5


ニッポン放送の素人のど自慢は出場者5人で毎日予選をして、週間チャンピオンを決める生放送番組でした。
私は予選、決勝とも「それこそあなたの歌だ」と母が太鼓判を押してくれた村田英雄さんの「よさこい三度笠」を歌い、優勝しました。
そのラジオ放送を芸能プロダクション「水車」の杉本吉安社長が偶然に聞いていらして、「うちに来て、歌手にならないか」と誘ってくれたのです。

えっ、ラジオでは顔が見えないですって。あのころは、顔の善しあしは関係ないんです。
歌さえうまければ私みたいなこんな顔でもよかったんですよ。
水車プロといえば当時、歌謡界一、二の大手で、事務所は銀座です。
所属する歌手は、青木光一さん、東海林太郎さん、神戸一郎さん、島倉千代子さんら、きら星ですよ。
私は二つ返事で、宜しくお願いします、と飛びつきました。
コロムビアのテストは普通、新橋にあった本社のスタジオで行うのですが、どうしてか私は、日比谷公会堂で実演している青木光一ショウのステージで受けたのです。
満員のお客さんを前に、母が作ってくれたはかま姿で、「よさこい三度笠」と三波春夫さんの「一本刀土俵入り」を歌って合格しました。


昭和35年3月18日のことです。
はかまといえば、私のトレードマークですが、このアイデアも母なんです。デビュー直後、コロムビアに呼ばれて「はかま姿なんか、歌謡歌手じゃない。取りなさい」と言われましたが、脱ぎませんでした。
コロムビアの合格をはさんで、1年4ヶ月の前座生活を経験しました。
私が付いた看板スターは、同じ水車プロの島倉さんと青木さんでしす。
お二人とも健在なので詳しいことは話せませんが、島倉さんには2週間で切られました。
青木さんが看板の地方の仕事で、前座の私に後援会ができてしまうと言えば何となく分かっていただけますか。

つらい思いもしましたが、青木さんのおかげで満員のお客さんの前で歌えました。
当時の青木さんは「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」などの大ヒットを飛ばして、すごい人気でした。
それはうまかったですよ。


プロとして始めての仕事は、神奈川県横須賀市の公民館で2曲歌って500円。
最初の大きなステージは、江東劇場(墨田区)で所属プロが開いた「水車祭り」です。
演歌歌手の登竜門といわれた劇場ですし、後日、都電の運転士さんに「あなた、江東劇場に出ていた人でしょと言われたりして、思い出深いですね。」
北海道から九州まで全国を回り、人には言えないような苦労もしました。
でも、芸能界の裏表を勉強させてもらったのも、前座時代です。
新幹線などありませんから、移動はほとんど夜行列車です。
青木さんは2等車ですが、司会やバンド、前座の私は3等車です。
宿の部屋や宿泊先の格も違いました。
1日3回、朝、昼、夜のショーをこなしてからの移動はきついですよ。
鹿児島なら東京から2昼夜の旅ですもの。
そんな前座時代に生涯の大恩人となる作曲家の市川昭介先生と出会ったのです。


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