"出世街道"演歌旅6


恩師の作曲家市川昭介先生との出会いは昭和35年、新橋のコロムビアレコードの本社の廊下でした。
私がコロムビアの坂田哲郎常務とお話しているところを小柄な若い男性が通りかかったら、坂田さんが、突然、「しょうちゃん、この娘頼むよ」と。この男性が市川先生でした。
そうしたら、いきなり「月謝は3000円ですから」ですもの。笑ってしまいますよね。
市川先生は当時、26,7歳。
前の年に島倉千代子さんの「恋しているんだもん」を手がけてはいても、まだ無名時代です。
福島県から上京されて、歌手の鶴田六郎さんのカバン持ちをしていました。

こうして、市川先生の池之端(台東区)の自宅、といっても一室のアパートへレッスンに通うようになりました。
交通機関は都電で、当時、運賃が13円、往復割引が25円でした。
ほかの作曲家の先生方にしかられそうですが、市川先生の教え方はピカイチでした。
ご自分で一小節ずつ歌いながらの指導ですよ。歌手を目指しただけあって歌はうまいし、つぼをしっかり押させた感じで、理解しやすいのです。

前座歌手をしながら、しばらくレッスンが続いたあと、私の前に神様が現れます。
馬渕玄三先生です。後年、五木寛之さんが前進座の舞台のために書いた「旅の終わりに」(のちに小説「海峡物語」)
の主人公「演歌の竜」こと高円寺竜三のモデルになるコロムビアの異色の大物ディレクターです。

美空ひばりさん、小林旭さん、島倉千代子さん、こまどり姉妹さんらにヒット曲を次々に提供した方です。
一般の方は歌謡曲は作詞・作曲の先生がつくると思っているでしょうね。
それもたくさんありますが、多くの曲の企画やアイデアの出どころはディレクターなのです。
昔、レコード会社の力が絶大な時代はなおさらです。
特に馬渕先生のような大物ディレクターとほかの関係者の力関係は天と地ほどの違いでした。

馬渕先生は、唱歌「浦島太郎」の「むかし、むかし浦島は・・」と、当時封切られた大川橋蔵さん主演の東映映画「恋や恋なすな恋」の表現をうまく使って詩を書くように作詞の星野哲郎先生に命じたのです。

こうしてできあがった詩に市川先生が曲を付けたのが「恋をしましょう 恋をして 浮いた」で始まる私の大切なデビュー曲「恋は神代の昔から」です。

当時のレコーディングといえば、オーケストラとの同時録音です。
録音に失敗して世に出られなかった歌手もいる時代だけに、すごく緊張したのが忘れられません。

昭和37年6月にレコードデビューしました。
ほぼ同時期に世に出たのが北島三郎さんです。
TBSテレビの歌番組「コロムビア・ヒットショー」に新曲を紹介するコーナーがあって、7月が北島さんの「なみだ船」、8月が私の「恋は神代の昔から」でした。でも、放送の前に、ぱっと火がついたんです。

レコード屋さんでは、私の名前を覚えてない人が「はかま姿で扇子を持って歌う人のレコードを下さい」と言う方が多かったそうです。
すべてが幸運でした。
8月ごろから待遇ががらっと変わりました。


"出世街道"演歌旅7へ

inserted by FC2 system