"出世街道"演歌旅7


「恋は神代の昔から」でレコードデヴューした昭和37年は、人生最良の年になりました。
星野哲郎、市川昭介両先生の作詞・作曲で次々に新曲が生み出され、レコーディングが続きました。
10月の「ちょうど時間となりました」、12月には「出世街道」が発売されました。
デヴューした時は23歳でしたが、「19歳」と4つ若くしました。
自分で決めて、仲良しの友人の誕生日、昭和17年9月15日を拝借しました。
23歳は大年増だと思い込んでましたからね。

女優の大信田礼子さんからは「私、誕生日がみどりさんと一緒でうれしい」と言われましたが、とうとう白状しませんでした。


デヴュー翌年の成人の日のことです。
NHKテレビ局に入ると、何と「成人を迎えた歌手特集」の歌番組でした。
実年齢はもう少しで24歳、内心はひやひやです。
仕事はそつなくこなしましたが、2日後の朝日新聞に「Hという歌手は20歳ではない」と書かれました。
でも、それっきりでした。
まぁ、士別の同級生や知り合いはみんな年齢の事は知っていたわけですしね。
この業界は皆さん年齢を若くしていますよ。
女性はもちろんですが、男性歌手もです。
国民的大歌手といわれた先輩は6歳、駅にまつわる大ヒット曲をお持ちの方は9歳もですから。
お二人とも故人です。


私の年齢のごまかしは結局、44歳で本を出版するまで21年間続きました。
レコードの売り上げは「恋は神代の昔から」が150万枚、「ちょうど時間となりました」は75万枚、最大のヒットとなる「出世街道」は250万枚を記録しました。
「およげ!たいやきくん」の450万枚には及びませんが・・・。
デビューわずか半年で発売した初LPの「畠山みどりは言いました」は、100万枚でLPレコードセールスの新記録でした。
シングルレコードが330円の時代です。札幌のキクヤレコード(中央区・狸小路)で、「『出世街道』は演歌としては記録的な売り上げ」と聞いたときのあの感動は、忘れられません。ふるさと北海道ですもの。



人気が出るとまち中を自由に歩くことさえできません。全国行く先々で山のようなファンに囲まれ、もみくちゃにされるからです。
スケジュールも超過密で、全国各地の公演やテレビ、ラジオ出演、レコーディング、映画の撮影と一日の睡眠時間は2,3時間。
若かったから体がもったんでしょうね。このころは、一度に書くサイン色紙の積み上げられた高さが2,3メートルにもなりました。
わずか2年ほど前の前座歌手時代、2曲歌って500円、1000円だったギャラも、日建て1日百数十万円に跳ね上がりました。
昭和38年6月には畠山みどり後援会が発足し、会長には自民党副総裁の川島正次郎先生が就任してくれました。
デビュー1周年と後援会発足記念のリサイタルを天下の歌舞伎座で開きました。
なにしろ、切符が飛ぶようにさばけて、すぐに売り切れですから、本当に夢のようでした。


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