"出世街道"演歌旅9

昭和39年は、ある意味で一大事が起こりました。
前年に創業したクラウンレコードから引き抜きがあったのです。
恩師のディレクター馬渕玄三先生がコロムビアから移籍し、「畠山を引き抜こう」となったらしいのです。
都内の一流料亭に呼び出され、馬渕先生やクラウンの社長、重役らに口説かれました。
馬渕先生は「市川昭介君も移るから」と言うのです。私も一度は「はい、分かりました。」と承諾したのですが・・・。


後日、市川先生はコロムビアを動かないと知って、「私は行きません」とお断りしました。
馬渕先生が「畠山をつぶしてやる」とお怒りになっているとの声が耳に入りました。
実際、厳しくさまざまな圧力がかかりました。まあ、数年後には和解するのですが・・・。
この時にクラウンが私の移籍第一弾として用意したのが「袴をはいた渡り鳥」です。
結局、仮録音しただけで、この曲はタイトルと歌詞の一部を変えて、チータ(水前寺清子)さんのデヴュー曲「涙を抱いた渡り鳥」として世に出るのです。


同じように私のために作られ、レコーディングまでしながら、結局発売されることなく終わった曲があります。
のちに村田英雄さんの代表曲になる「夫婦春秋」です。
〜ついて来いとは言わぬのに
だまってあとからついて来た・・・
コロムビアのディレクターの「畠山には、こういう歌はまだ早い」
という一言がお蔵になった理由のようです。
村田さんで大ヒットですもの、逃した魚は大きいですよ。
ただ、私の歌詞は「俺が25で、お前が20歳」でしたが、村田さんでは「俺が20歳で、お前が19」に変わっていましたね。


初めての海外公演は39年7月のハワイです。
まだ、海外旅行が一般的ではなく、1ドルが360円の時代です。
わざわざ、国際線の飛行機に乗るための洋服を作りましたもの。
それほど、仰々しかったんですよ。
公演は体育館を会場に2日間だったかな。
1週間ほど滞在しましたが、ハワイでは国内同様に日系人や日本人に囲まれて街を自由に歩けませんでした。
思い出は、同行した母がとても喜んでくれて、私に1000ドルの指輪を買ってくれたことです。
今でも大切にしています。


ハワイでは42年まで4年連続で公演しました。
サンフランシスコなどでも歌いましたが、最も印象に残っているのは56年11月のブラジル公演ですね。
サンパウロとアマゾン川流域にあるベレンの2都市で畠山みどりのショーを行いました。
ベレンは、日系人の熱狂的なファンの方が入植50周年の記念イベントに呼んでくれたのです。
遠い南米までの長旅で体調を崩さないようにと往復ともロサンゼルスで乗り継ぎ、9時間の休憩をとっての空の旅でした。
サンパウロの劇場は、通路までびっしりのお客さんで、現地の関係者から「観客動員数で美空ひばりさんや森進一さんを超え、日本人の演歌歌手では過去最高」と言われました。
本当にうれしかったですね。


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