"出世街道"演歌旅3


「家が火事だ。すぐ帰れ」。
先生の指示にも実感がわきませんでした。
自転車で急いで帰宅すると、自宅は黒焦げの柱が残っているだけです。
ぼうぜんとしました。
記念写真や通信簿など想い出の品々が全部灰になってしまったのですから。
私には子供の頃の写真がないんです。

出火原因は祖父のたはこの火の不始末でした。
でも、おじいちゃんは大工さんだけに、小さな小屋に仮住まいして、あっという間に家を新築してしまいました。

この火事から2年後の昭和33年11月、2度目の火事で、また全焼です。弟子の大工のたばこの火の不始末が原因でした。
2度ともけが人がでなかったのが不幸中の幸いでしたが。


昭和23年に士別から札幌の父のところに行った母が下の弟を出産した後、23年ごろに両親ときょうだいは上京します。
東京に落ち着いた父はその後、海軍時代の友人と3人で三桜電機という電線製造会社を創業しました。
これが大当たりし、朝鮮戦争の特需で大儲けです。
父は東京・中目黒に自宅を構えました。
生活に余裕ができたので、毎年夏休みになると母ときょうだいは士別へ里帰りです。
私は母や弟、妹がいる間は、それは楽しくてうれしかったですよ。でも、帰った後は「なんで私だけが、こんな寂しい思いを・・」
と。毎夏、その繰り返しでした。

高校2年の時でした。父が士別を訪ねてきて、「大学は明治薬科大(東京)を受験しなさい」と言うの。
薬剤師にしてお医者さんと結婚させたかったのですよ。なぜか私はその気になれなかったのですが、10日も説得されたのです。
それで、「バレーボールをやめて勉強します。」と。でも、父が帰ったら、すぐに部活をやって受験勉強はしませんでした。


その父が昭和33年1月に倒れて、脳溢血と診断されました。前年に会社が倒産して、お酒を浴びるように飲んだのです。
見舞いに上京しましたが、すでに中目黒の家は人手に渡り、母たちは小山町(港区三田)に借家住まいでした。

父は東京・芝の済生会中央病院に入院しました。左半身と言葉が不自由になりましたが、一命は取り留めました。
その6年後、53歳で脳腫瘍に侵されました。
医師の説明では、最初に倒れた時に脳腫瘍はできていたようなんです。
視神経などをやられて、目と言葉がまったく不自由になり、以後15年間、亡くなるまで寝たきりの生活でした。

その後、私が運良く人気歌手にならなければ、とても経済的に面倒を見切れなかったですね。
この時、私は東京の華やかさを見てしまうんです。年ごろですもの。
もう、妹や弟がうらやましくてうらやましくて。
頭の中は東京と思いつつ、士別に戻りました。
士別高校を卒業と同時に地元の和・洋裁学校に入りましたが、結局、そこをやめて祖父母の反対を押し切って33年7月に上京します。
今考えても、15年もの間、手塩にかけて育ててくれたおじいちゃん、おばあちゃんには、申し訳ないことをしたと思います。
期待に胸弾ませて出て来た東京での生活が、波乱に満ちた青春になるのです。


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